◆ 自己紹介
読者からの要望でプロフィールを書きました。
要望は「笑える」と「私の仕事」です。
まあ珍言采は仲間内でも変人ですから、前者はそれほど難しくないと思います。
このプロフィールを書くために我が身を振り返ってみれば、確かに自分でも笑えました。
後者は内緒でしたが、無職になりました。
電気会社のサービスマンでもありませんし、つい最近まではSEモドキをやっていました。
とりあえず珍言采の趣味に関係することを中心に、幼少の頃を振り返りながら時系列に書いてみることにします。
◆ 科学と学習
珍言采は昭和30年(1955年)生まれです。
小学生の頃は貧乏でした。日本中が貧乏だったと言う人もいますが、裕福な友人も結構いたように思います。
親が破れた服を着せることはありませんでしたが、鶏のから揚げがご馳走だったのをよく憶えています。何しろ誕生日くらいしか食卓に出ないのですから。
母方の実家は長屋の大家さんで、町内会長だったせいか遊びに行くとバナナが食べられました。
「どうぞお食べなさい」と言われる前に、こんな美味いものはないと1房たいらげていました。
貧乏自慢だったらいくらでも出来ます。
(こう書くと貧乏コンプレックスと言う輩も出るかな)
当時同級生の多くは、科学や学習という学研の月刊誌を学校で購入していました。
珍家にはその余裕はありませんでした。
でも、その月刊誌には教材のような付録が付いていて、とても欲しかったのです。
確か和紙を作るキットやゲルマニウムラジオもありました。
同級生の家に遊びに行って、その付録が作られないまま放置されていると「くれんか」と言ってよく貰いました。
珍言采は北九州市小倉の出身です。
よってこの言葉は小倉弁になりますが、今はずいぶん方言も変わったそうです。
母親からは、「乞食じゃないんだから貰いなさんな」と言われていましたが、こっそり貰って作り隠していました。
◆ ゲルマニウムラジオ
見よう見真似でゲルマニウムラジオ(勿論AMです)を製作したのは、確か中学1年生でした。
当然回路なんかわかりませんから同級生宅のゲルマラジオを見てデッドコピーを作るのです。
当時の選局回路は、安価なミュー同調です。コイルのボビンの中にフェライトコアを入れたり出したりしてインダクタンスを可変するものです。
最初はミュー同調の選局の仕組みがわからずに、コイルと組み合わせるセラミックコンデンサの代わりにポリバリコンを付けたりしていました。
恐ろしい回路です。でも後日ラジオの歴史が載った雑誌を見ていたらインダクタンスとキャパシタンスの両方を可変する仕組みもあったようです。
選局表示部分が凝っていて、2つのチューニングダイヤルに連動した紐が交差した点が同調周波数を表示していたようです。
(さすがによく思い出せない)
ゲルマニウムラジオのアンテナは、コイルの一端に100PF(ピコファラッド)を介して電源コンセントへ差し込んでいました。
コンデンサの種類は、耐圧が250V程度のマイカ(雲母)でした。
このやり方は下手をすると100Vで感電する恐れがあります。100PFのコンデンサを介すると60Hzや50Hzの商用周波数は低くて通しませんが、できるだけコンセントに近い部分に入れて重電部を配線しない配慮が必要です。そのようなことを理解したのは中学生の後半でした。
部品の入手は、小倉城の北に室町という地域があってパーツ屋さんがありました。(もう店名は思い出せません)
そこで回路図を見せると、薬屋さんのような木製の引き出しから部品をバラバラと出してくれました。
その後中学生の頃になると部品の調達はもっぱら中古ラジオからでした。
◆ スパイダーコイル
やがてゲルマニウムラジオも1石のトランジスタラジオに昇格しました。
深夜放送の「モコ/ビーバー/オリーブ」を聞いていた頃です。
確か2SA54とか2SB56の時代です。アルミ缶のトランジスタが鈍く光っていました。足の配列は上半円でEBC(エミッタ/ベース/コレクタ)です。
2SC372や2SC458の時代になるとECBの配列になって、なんで変わるんだろうと不思議に思っていました。
自作トランジスタラジオのアンテナはスパイダーコイルを巻きました。ループアンテナの変形ですが、確かラジオの製作とか初歩のラジオとかいう月刊誌に製作記事がありました。
最初はマブチのモーターを分解してローターのエナメル線をほどきそれをアンテナとして巻いていましたが、エナメルが剥げた部分がショートしてまともな性能は出ていなかったと思います。
ようやく回路を理解しだしたのは、中学2年生の頃です。授業中にノートの片隅へ回路を書いていました。別に設計していたわけではありません。雑誌の回路を暗記していたのです。
でも、当時の能動素子としては、まだ真空管全盛でした。
6BE6、6AR5うーんラジオ球が思い出せない。
◆ タイガーロケッティー
中学のクラブ活動は3年間電気工作部。名前が変でしょう。
別に化学部はありましたが、電気工作部は校庭でUコン機を飛ばしたりする遊びを気に入っていました。
当時はまだラジコン機が高価で、お金持ちの坊ちゃんしか持っていませんでした。
意外に安価だったのが、化学固形燃料で飛行機を飛ばすエンジンでした。
確か「タイガーロケッティー」という商品名で、1000円以下だったと思います。
これをバルサ材の軽量飛行機に取り付けて、固形燃料を燃やして飛ばすのです。
このエンジンが今でも売られていたら是非買いたいと思います。
Uコン機のエンジンはフジかエンヤの09だったか099でした。
珍言采は持っていなかったのですが、よく机を加工してエンジンを取り付け慣らし運転をしました。
プラグはニクロムか白金で、着火の容易性は白金の勝ちでした。点火は直接プラグにバッテリーを接続します。
エンジン始動後は、すぐにバッテリーを取り外します。それでも回転を続けるのは、ディーゼルと同じ原理だからです。
燃料はひまし油の混合だったと思います。
後日オートバイの神様と呼ばれるポップ吉村が、米軍基地でレース活動をやっていた頃の本を読むとオイルはひまし油と書かれていたので、懐かしく思いましました。
始動で面白かったのは、チョークです。直にシリンダー内へ油差しのような道具で混合燃料を注入しました。
プラグがかぶると「オーバーチョーク」と言っていました。
始動はセルモーターがないので、プロペラを直接手で回転させます。右手の人差し指と中指で「えいやぁ」と手前に引くように勢いよく回転させます。
エンジンが指導してもたもたしていると勢いのついたプロペラが1回転して来て指を叩きます。
そこに注意し一発で指導すると楽しい作業でした。このときの知識がその後のオートバイや車の整備に当然役立っています。
余談ですが幼稚園に入る前ですから昭和34年頃でしょうか、親父が自家用車のエンジンをクランク棒を突っ込んで手で回したのを憶えています。1回だけですが。
その他の部活で記憶に残っているのは、工場訪問です。
学校の近くに7UP工場がありカナダドライやチェリオを製造していました。
当時電気工作部にはよくできた部長(生徒)がいて、学校/クラブ名をかたり工場見学を申し込んでいました。
毎年見学後に飲める1本が楽しみでした。
◆ 高1中2
そうこうするうちに、3年生になると電気工作部の顧問が代わり活動も遊びから技術指向へ偏向され3球ラジオを作ったりしました。
真空管を電球と同じくタマと言っていたので、3本だから3球です。
高周波増幅、検波、低周波増幅に使用していました。電源の整流はもうシリコンダイオードの時代になっていました。
それ以前は、整流も高圧が球で低圧がセレン素子でした。
その頃同級生達がアマチュア無線の免許を取得し始めました。
珍言采は3球ラジオを卒業し短波ラジオの時代でした。
といってもまだ実力がそれほどではなかったので、全部自作したわけではなく市販品の改造です。
高周波1段中間周波2段増幅で、通称「高1中2」です。
その市販品も中学生ではお金を出して買えるはずもなく、屑鉄屋(バタ屋)から100円程度で買ってきたものです。
よく学校帰りに自転車で寄っては買ってきました。だいたい目方(重量)で売ってくれるので安いのです。
しかしリード線類は「アカ」と呼ばれとても高かったです。アカとは銅のことです。
短波帯のアマチュア無線はまだAM変調全盛で、ようやく中学3年生の頃にモガモガいっているSSBの時代に突入しました。
私の改造短波ラジオも数年後にやってくるBCL時代まで眠ることになりました。
改造で苦労するのは、感電です。
当時はTV(当然真空管式の白黒)も含めてトランスレス時代でした。安価にするために電源回路のトランスを省略する設計です。
外装やツマミを取っ払ったラジオの問題は、コンセントの差込方向を間違えると100Vのホット側がシャーシに落ちることです。
触るとよく感電していました。そのためにシャーシにネオン管を接続しておき指先で触っていました。ネオン管が光るとシャーシに100Vが来ているのです。
◆ ICの出現
中学3年の頃、突然東芝からICラジオが販売されました。確かIC70という商品名でした。
珍言采はその頃雑誌に載っていたAMワイヤレスマイクに凝っていました。
数十mしか電波が飛ばないのに、自分で放送できるというところがお気に入りでした。
回路的には、AMラジオ周波数帯の1石発振回路にクリスタルマイクで変調をかけていました。
当時マイクは非常に高価だったので、クリスタルイヤホンの耳に入れる部分を外してマイクの代わりにしていました。
クリスタルイヤホンはトランジスタラジオに付属品として必ず1個付いていたので、何処の家庭にもありました。
◆ マイキット100
電子部品を組み合わせることで、回路を構成する科学教材がありました。
ほとんどがデパートの文具か玩具売り場で売られていました。
最もポピュラーなのが電子ブロックで次がマイキットでした。
電子ブロックは、電子部品1つ1つがプラスチック製のケースに入りそれをプラスチックのボードに差し込んで接続していました。
マイキットは電子部品がボードに配置されその端子間をリード線で接続して回路を構成出来ました。
どちらも作ってはバラして元に戻すことが出来ます。
珍言采は、コストパフォーマンスに優れ(確か30%くらい安かった)更に木製のトランク(アタッシュケースもどき)に入ったマイキットを購入しました。
マイキット100の100は100種類の回路見本が添付の説明書に記載されていたからです。
構成部品は、電流計、AM用バーアンテナ、ボリューム、スイッチ、トランジスタ2石、ダイオード、抵抗数本、コンデンサ数本・・・
今でも売っていたら我が家の中3の息子に買ってやりたいくらいです。
珍言采は雑誌に載っていた回路をこれで製作し、色々と試すことで勉強になりました。
◆ オープンリールデッキ
高校に入学すると親がSONY製のオープンリールデッキを買ってくれました。
型番は今でも憶えています。TC−6260。
そのころはLPレコードがコレクションでしたが、小遣い1月分でLPが1枚しか買えないためアルバイトで頑張っても年に数枚しかコレクションできません。
そこでこのオープンリールデッキは、友人のLPを借りては録音するのに大活躍しました。
レンタル屋なんて想像も出来ない時代です。
また九州でも始まったばかりの民放FM放送(FM福岡)は、珍言采の大切なソース源でした。
当時同級生の家にはまだ珍しかったSONY製のカセットデッキがありましたが、音質的にはまったく敵ではありませんでした。
何しろ周波数特性でもオープンリールの半分程度、左右に正弦波の信号を記録して再生出力をオシロに入れてリサージュを描かせると10khzですら位相特性がガタガタでした。
カセットテープを入れるホルダーを手で押しただけで位相が狂うのです。
よくメーカーはオープンリールと同価格で売っていたと思います。
その当時のカーオーディオは8トラックカートリッジからぼちぼちカセットカーステレオへ切り替わりつつありました。
メーカーはクラリオンかテンが有名でした。
よくアルバイト先の従業員のカセットメカを修理して、お小遣いを貰いました。
不具合はほとんどピンチローラーの汚れでテープを巻き込むことでした。
◆ アマチュア無線
珍言采も友人から少し遅れてアマチュア無線の免許を取得しました。
友人はJA6でしたが、珍言采はJH6へ切り替わっていました。
最初に使用したリグ(無線機)は、学校の先輩から借りたトリオ(現ケンウッド)のTR−1200という50MHzのトランシーバーでした。
山(足立山や平尾台)に登ると北九州市内の半分くらいと交信できました。
自分で購入したリグは、中古で買ったTR−1100です。これも50MHzのAM/FMトランシーバーです。
その頃学校にも9R59+TX88+VFO−1というトリオのAM変調専用HF機(短波用通信機)がありましたが、既にSSB全盛で使い物になりませんでした。
その後バイトで稼ぐと中古ですが井上(現ICOM)のFD−AM3やトリオの9R59D等を買い遊んでいましたが、ほとんど50MHz以外はやりませんでした。
9R59DはもっぱらBCLに使用しました。
中学生の半ばから深夜放送が同級生の間でブーム(オールナイトニッポン全盛)になり、その後一部が短波帯の海外放送へ目を向け、受信しては放送局へ手紙を出し「ベリカード」と呼ばれる受信証明を集めるのが流行りました。
しかしAMラジオ帯では韓国や中国に近かったせいもあり政治的妨害電波が酷くて、あまり遠方の局を受信できませんでした。
そこで珍言采はロングワイヤーアンテナを張り、更に9R59Dの高周波増幅真空管を6BZ6へ交換し、中間周波数の選択度をあげるために先輩にIFTをメカニカルフィルターへ交換してもらったり涙ぐましい努力をしていました。
◆ FMミニ放送局
昔一時期ミニFMの放送が流行りましたが、実は珍言采もそれよりずっと昔に無許可でFM放送をやっていました。
17歳の頃ですから約25年前、もう白状しても時効にしてください。
回路はアマチュア無線の50MHzの送信機を参考にしました。タンク回路のコイルとコンデンサの定数を変えただけです。
12AT7の双三極管(真空管)を使用して低周波増幅と発振に使ったものです。
マイクもしくは外部入力端子からの信号を低周波増幅で大きくし、バリキャップダイオードで発振周波数を直にFM変調する構成です。
しかし本物のアマチュア無線機とは違い発振即アンテナへ給電というむちゃくちゃな改造回路でしたが、意外に安定して動作していました。
本来は発振回路の後段に緩衝増幅と高周波増幅(俗に言う終段)がないと不要輻射が多くて近所迷惑(TVやラジオに妨害)をかけます。
おそらくパワーも数百ミリワットはあったらしく約1km離れてもFMトランジスターラジオで受信できました。
送信アンテナはアマチュア無線用のZLスペシャルを80MHzで設計して接続し、自転車にFMトランジスターラジオを乗せて走り回っては受信状態をチェックしていました。
放送はほとんどオープンリールデッキから音楽を流すもので、DJはたまに曲紹介をやったくらいです。
聴取者は近所のお友達や同級生でした。リクエストも受け付けましたが、まともに運営できるはずもなく数ヶ月でやめました。
◆ 自作ラジコンサーボ
まだサーボモータというものを知らない珍言采もUコン飛行機を卒業するとラジコンをやりたくなりました。
でも初期投資がかかるばかりだけではなくラジコン機は墜落したら数万円近くがおしゃかになります。
そこでわりと安全なボートをやってみることにしました。
瓶ジュースの木箱を解体し双胴船を作ります。
次に動力は手持ちのマブチ船外機を取り付けます。船外機は船体にスクリューのシャフト穴を開けずに済みますから船体の製作が簡単になります。
問題は操舵です。船外機を左右に振るためにモーターを別に1個船体に取り付けて大きなプーリー(ベニヤ板)を取り付けます。
このプーリーが回転することでプーリーの外周近辺に取り付けたピアノ線を船外機まで伸ばして左右に振ります。
これは結構苦労した機構です。
ボートの発進停止は、船外機のスイッチを外部に引き出して制御しますが、基本的なラジオコントロールで悩みました。
操舵のモーターのオンオフと船外機のモータのオンオフをどのように制御するかです。
結局高価な多チャンネルラジコン専用送受信機は買えません。
今でこそ2000円以下で簡単なラジコン玩具がありますが当時は数万円しました。
そこで珍言采が考えたのは、市販の27MHzトランシーバーの改造です。
2chを制御するわけですから搬送波を2つの信号で変調する必要があります。
知ったばかりのオーディオの知識から送信信号を2つの異なる低周波で変調する方式です。
具体的には、マイク端子(マイクはスピーカと共用だった)に500Hzと2KHzを入れることです。
受信側にはそれなりのハイパスとローパスのオーディオフィルターを入れて、2つの異なるリレー回路を別々にオンオフさせるのです。
スピーカーネットワークのLCフィルターを真似て製作しましたが、結局はカットアンドトライで2つのリレー回路が動作するように調整しなくてはなりません。
しかし当時3000円以下の安価なトランシーバー玩具は、受信方式が超再生でした。
これは受信増幅回路の入力に出力からフィードバックをかけて発進ギリギリにすると、受信感度が著しく上がる方式です。
でも欠点があります。受信中にシャーという音が音声出力から出てしまうことです。
これは受信側の回路を誤動作させるだけで失敗でした。
そこで急遽初歩のラジオ、ラジオの製作、CQという雑誌をめくり通信販売で一番安いスーパーヘテロダイントランシーバーを買いました。
ジャンク基板で十分なので、2000円以下だったと思います。
ボートはそれなりに動作しました。
操舵はプーリーが1回転しないと元の位置に戻らないので、苦労しました。
右へ曲がるのに、一度左へ曲げて右へ曲がるのを待ち丁度よい一で直進させるために少し手前や行き過ぎた個所で再度操舵しなくてはならないからです。
何しろ操舵のモーターを逆回転させるには、3つの変調を船を逆走させるにはさらにもう1つ変調しなくてはならないので、最初から諦めていました。
それから15年以上経過して、自分の子供たちに安価な1チャンネルのステアリングのラジコンカーを買ってやったときは笑いました。
右に走らせるのに一度左回転させてぐるっと廻って右を向いたときにステアリング操作を打ち切らなくてはならないからです。
15年目に大人になって同じ目に合うなんて思ってもいませんでした。
◆ パナレディーとテクニクスプラザ
趣味は音楽観賞。
これは誰もが一度は口にする言葉ではないでしょうか。
九州のような田舎にいると趣味の音楽を聴こうにもソースが限られます。
20年ちょっと前は、レコード以外と言えばFM放送が高音質なソースだったのです。
ある日FMfanと言う雑誌の片隅に、JAZZのレコードコンサート(なんじゃこれは)の記事が載りました。
区内のテクニクスプラザ(松下さんのショールーム)で、高名なJAZZ評論家氏がやって来てレコードをかけ能書きを話してくれるイベントです。
問題はそのレコードコンサートではなくショールームなのです。
最新のオーディオ機器が並び会員になると使用させてくれるのでした。
またそこにはレコードライブラリがあり会員はその場で借りてショールームの機器で聴くことができたのです。
これは無料のレンタル屋ではないですか。
カセットテープやオープンリールテープを持ち込めばダビングが自由に出来たのですから。
それからは土曜日になると(日曜日は休館日)入り浸りです。
パナレディーと呼ばれるお姉さんが機器の使用方法を教えてくれレコードを貸し出してくれます。
お姉さんのお仕事は、エレックさん(当時の松下の電子レンジの愛称)を使用した料理教室の開催とかが本業のようでした。
まあ後日就職してすぐに珍言采が買った電子レンジがエレックさんだったのは、その時に刷込まれたのかもしれません。
当時としては一番安価なもの(暖めるだけで6万円)でしたが、まだ珍しくて独身が持つのは身分不相応と言われていました。
その後北九州図書館等にもレコードライブラリができて(録音不可)重宝しましたが、あれほど音楽に飢えていた世代にテクニクスプラザが与えてくれたものは計り知れません。
当時は著作権もうるさくなかったです。
◆ ゼンハイザー社とエレガ社
また話しは逸れますが、図書館の視聴はヘッドホンでした。しかしそのヘッドホンはゼンハイザー社の2万円台のオープンエアタイプで、最初に使用したときは驚きました。
音質がナチュラルで頭が重くない。何しろオープンエアも珍しいのにドイツ製でしたから、誰が選択したんだろうとずっと今でも気になっています。
当時珍言采を含め友人達が持っていたヘッドホンは密閉型で、価格も4000円程度が主流でした。
その後珍言采は、国産のオープンエアタイプが出るとすぐに買いました。エレガ社の10000円程度のものでした。
安物としては星電社の「ルンルン」というのが1000円程度で出て一世を風靡しましたが、玩具でした。
エレガ社は後日感心することがありました。
左右の密閉BOX内の前後にスピーカーユニットを配置した4チャンネルヘッドホンを作ったことです。
大きさから際物でしたが、買って試してみると結構いけました。
(際物といってもコス社のイヤースピーカより小さいですよ)
更に10数年後横浜市に住んでいた頃、たまたま電話帳をめくっていてエレガ社の電話番号を発見しました。
試しにかけて昔買ったオープンエアタイプのパッドがウレタン製なのでボロボロになったのですがと言うと、自宅まで無料で送ってくれました。
そのつもりはなかったのですが・・・(ありがとうございました)
◆ 4chステレオ
16から17歳の頃に4chステレオが流行りました。
ビクターの4chレコードを主として、まがい物も多く流行りました。ビクターの4chレコードは1本の溝に4つの信号が入っていましたが、その外は擬似的な4chが多かったと記憶しています。
擬似方式といっても大手家電メーカーが提唱する機器は子供の分際では高価で手に入らず、もっぱら遊ぶのはスピーカーマトリクスです。
普通のステレオに2つのスピーカーを追加して背後に設置し左右の位相を換えて接続します。それでもFM放送局が流してくれる4chソースで、雨が降る中馬が走って来て部屋の中央を駆けて後ろへ去って行く効果音が素晴らしく新鮮でした。
その後数年して4chの技術を応用し、ビクターからバイフォニック、松下からアンビエンス等のバイノーラルが流行りました。
録音時にダミーヘッド(人間の頭の形をしたものにマイクを仕込んだもの)を使用したものです。
どっちかというとアンビエンスはあまり効果がありませんでした。バイフォニックは生々しくて驚きました。
◆ レーザー通信
18歳の頃はアマチュア無線部でした。
学校の実験室には、ヘリウムネオンのレーザー発信機がありました。それを拝借して光通信を試みました。
最初は夜になると約2km離れた中学校の壁面にレーザー光を当てて遊んでいるだけでしたが、これで通信できると面白いと思うようになりました。
誰でも考え付くのはAM変調です。
送信側は、スピーカーのボイスコイルに竹ひごを付け黒い1cm角の紙をボンド付けします。
これでレーザー光を半分ほど遮光しスピーカーにアンプを接続し鳴らします。
音の変化に応じて光の強弱が変化しますから受信側はフォトトランジスタで受けた信号を増幅するだけです。
しかしこれではアマチュア無線部員の名が泣きます。
次に考えたのがヘリウムネオン管の陽極側にトランスを入れて発進電流を変調させます。
所詮ヘリウムネオン管も真空管と同じで、陽極電流を可変すると出力が変化しAM変調がかかります。
しかし最初の発振にてこずりました。トランスなんか入れると発進してくれないのです。そこで発振するまではトランスの2次側をショートさせ発振後に安定してからトランスが回路に入るようにしました。
当時学校からこっそり持ち帰って自宅で実験している写真が私のアルバムに貼っていますが、今見るととても懐かしい青春時代です。
◆ ゴキブリ撃退機
当時珍言采は、離れに一人で住んでいました。6畳と4畳半の部屋に2畳の台所がありました。
農家の納屋を改造した部屋なので、壁の中は赤土で出来ておりムカデや蜘蛛やゴキブリが徘徊していました。
と言ってもムカデは年に1回くらい、ゴキブリも年に3回くらいです。蜘蛛は屋外にたくさんいました。
蝿や蜘蛛は、ビニール製の鼓弾を発射する玩具の空気銃で撃退していました。
そのうち鼓弾の先頭にピンを埋め込んで、弾が当たると虫がバラバラにならずに壁に昆虫採集のように張り付きました。
(今は恐ろしくてとても出来ない)
ゴキブリは電撃ショックで撃退しました。
AC100Vを整流し、耐圧250V以上の真空管用機器の平滑回路に用いる電解コンデンサへ充電するのです。
部屋の隅に這わせた間隔1cm程度のワイヤーに接続し、寝る前に充電しておくとこの上をゴキブリが歩き電撃ショックで死ぬのです。
でも1回しか成功せずあまり役には立ちませんでした。
その頃珍言采の部屋の中は、DC12Vが3室内の各所に配線されていました。
台所として設計されてはいましたが顔洗い場になっていた部屋で、大型の車用バッテリーが常時フローティング充電されていました。
さしずめ今だったら10BASE−Tを室内に張り巡らしているようなものでしょう。
用途は発発(ハツハツ)つまりデコデコ(DC−DCコンバータ)の反対で、低圧のACを入力すると高圧のACを発電する電動機の組み合わせで実験したり、ポータブルやカー用(FT−75だっけ)のアマチュア無線機器を使用するためです。
◆ リモコンライト
珍言采の実家は田舎です。隣の家は10m以上離れているくらいです。敷地も100坪くらいはあったので、母屋から離れに行くのに夜は真っ暗でした。
そこで母屋を出ると離れの電灯が点くようにリモコンを使用しました。
業界で初めてカラーTVにリモコンを付けたのはサンヨーだったように思います。商品名は「ズバコン」でした。
キャンディーズが宣伝していたような気がします。
そのリモコンの送信機と受信ユニットが中古で買えました。確かカホ無線のジャンクコーナーでした。
受信ユニットをバラすとAC100Vでプランジャーが回転機構を回し、大きな接点が接触したり離れたりしていました。
送信側は超音波を使用し単三電池で動作していました。
そこで受信ユニットに直接電灯を接続しリモコンを持ち歩いていました。
家族からはまた馬鹿が始まったと思われていたようです。何しろそれまでに、部屋のドアに掃除機のモーターを接続し自動ドアにしたり(これは失敗)、テープレコーダを改造してインターホンを作ったりしていましたから。
発売当時のズバコンは、その性能より誤動作の噂であまり普及しませんでした。
今のように赤外線でコードを送るディジタル方式ではなく、2種類の超音波を発振するアナログ方式ですから鍵束をチャラチャラいわせると誤動作するとか、食堂で自動ドアが作動すると店内のTVが消えるとか言われていました。
珍言采家では誤動作したことはまったくありません。
また余談ですが、犬は超音波まで聞こえると知っていたのでズバコンを飼っていた猟犬に向けて発射してみましたが、まったく反応しませんでした。
◆ 宵っ張りの朝寝坊
珍言采はアマチュア無線や深夜放送を聞いて、寝るのは深夜でしたから朝はとても弱かったのです。
目覚し時計も効きませんでした。(低血圧だったせいもあります)
そこで部屋のステレオ装置を大音量にして、そのスイッチを離れの外からオンに出来るようにしていました。
朝になると母親や叔母が離れまで来てスイッチを入れてくれます。
そうすると大音量で好きな音楽がかかるので、やれやれと起き出すのです。
しかしそれもアナログディジタル表示時計が発売されて、タイマーとして使用し解決しました。
時計自身は同期モーターが60Hzで回転し、数字の書かれた文字板がパタパタと倒れるものです。
私の友人の場合は、冬場は電気毛布を最強にして寝て朝同じようなタイマーでオンになると暑くて目が覚める仕組みでした。
◆ 商用電気のエネルギー
珍言采は子供の頃からAC100Vで遊んでいたので、ある意味では電気を馬鹿にしていました。
しかしあるときに大変恐ろしいものだと思い知らされました。
今はもう実家に離れはありません。珍言采が社会人になって取り壊されました。
実家は農家から買ったものですから離れは先程書きましたように納屋を改造したものです。
1階に居室と倉庫があり、倉庫は珍言采の通学用バイクの車庫でした。
2階には農家が使用していた糸車やスキやクワ等の農具が転がっていました。結構納屋は廃屋に近かったので、親父も手を付けなかったようです。
珍言采はその離れの屋根に50MHzの4エレメント八木アンテナを設置し、ローテーター(電動で回す道具)で回転させたりしていましたから、よく屋根に登っていました。
50MHzは波長で6mありますから、1エレメントは1/4波長のアルミ棒2本で構成され長さが3mはある大きなものです。
それをメインテナンスするために瓦屋根を歩き回るものですから、そのうち雨漏りが始まり社会人になる直前は結構酷い個所もありました。
ある日2畳の台所の電灯の線に沿って雨漏りが始まりました。
漏電対策を取ろうとしても天井裏の屋内配線の個所ですから暗闇でそれも濡れていては触れません。
そのうち雨の強い夜に電球がパンと音を立てて割れました。熱せられた電球が雨水で冷やされて割れたようです。
仕方なく長靴を履いて絶縁し割れた電球を取り除きました。
それでも滴り落ちる雨水で電球ソケット内は濡れていきます。ブレーカーを切って母屋に非難すればよいのですが、親父に怒られるのがわかっていますからそれも出来ませんでした。
見守ること2時間、ついに電球ソケット部分でアークが飛んでまるで花火のようにソケットから火花が飛び散りソケット部分が焼け落ちました。
落ちてからは電線が離れたせいかショートすることもなくなりゆっくり寝られました。
後日乾燥してから屋内配線を自分で切り解決しました。
今思い出しても震えてしまいます。
◆ ダンボール箱スピーカ
18歳を超える頃、世の中のオーディオはフィリップスカセットテープへ切り替わりました。
仲間内では音質の良い2トラック38cmオープンリール、略すとツートラサンパチがまだまだ羨望の時代でしたがラジカセ(モノーラル全盛)が流行ってしまい珍言采もカセットを併用するようになりました。
珍言采は相変わらず貧乏で、家庭教師をやって得るお金は通学用のバイクのガソリン代と昼食代へ消えていました。
そこでアマチュア無線部の部室にある誰かが買ったCQ誌の広告欄を見て、ジャンクのカセットデッキを通販で買いました。
物は輸出用(北米対応?)でした。
最初はコンセントを差し込んでもウンともスンとも動かないので悩みましたが、表示のない(外装がないので)ヒューズホルダーのヒューズを1本抜いて空いている方へ差し込むと動作しました。
その時点でようやくAC220V/110V両用なんだと理解しました。
ヒューズは220V側に装着されていたのです。
その後自己録では問題無かったのですが、録音済みテープを再生すると若干再生スピードが遅いのに気が付きました。
このデッキは安価なジャンクですからトップ、フロント、リア、サイド一体型の外装は付いていませんでした。ボトムキャビネットの上にメカシャーシと基板がむき出しの状態です。
ドルビーBのノイズリダクションも付いていましたが、使用してみると再生音の高音が落ちてしまいました。
このカセットデッキのLINE出力はかなりのドライブ能力があり、インピーダンスがマッチングしていないのに8オームのスピーカをかなりの音量で鳴らすことができました。
そこで壊れたステレオ装置のスピーカユニットをミカンのダンボール箱へ取り付け鳴らしていましたが、結構貧乏学生仲間に好評で珍言采と同じジャンクデッキを買う輩も出ました。
テープスピードが遅い問題は、仲間内の物知りがDCモータの背部にメカニカルガバナー(調速機)が付いているのを見つけ振り子の動作する回転速度を調整して合わせました。
このガバナーというのは回転軸に振り子が付いていて、回転数が落ちると振り子が下がってメカスイッチがONになり上がるとOFFになる機能を持っています。
高速でON/OFFを繰り返し印可電圧を変えて回転速度を調整しているので、サーボがうまくかかっている状態とは異なりワウ・フラッターも多く耳につきます。
本来の原因は電源回路の入力AC電圧が低いのでモータードライブ基板へ供給する電圧も低く更に安定化されていないことです。
何故か電源基板に出力電圧の調整VRがなかったのです。今だったらその部分を改造していると思います。
◆ 社会人だぞ
昭和52年4月1日、某社入社式に参列。
配属はテレビ研究所技術二部、モノクロTV機器やコンピュータディスプレイを設計しているセクションでした。
入社後すぐに技術部課長から同期の仲間と一緒に面談を受けました。
面談では、何をやりたいか聞かれました。
仲間はアメリカにホームステイしていたので英語を活かした仕事をしたいと、珍言采は仕事が午後5時に終わったら測定器を自由に使わせて欲しいと言いました。
趣味はなんだと聞かれたので、オートバイとアマチュア無線と答えました。
すると当社の製品を何か知っているかと尋ねられたので、カラーTVの回路がM社とまったく同じだと答えると、あの会社は「真似した電気」と呼ばれているんだと教えられました。
ふむふむM社の3A3の高圧の球が当社と同じように弱いですねと言うと、そこまで真似しているからと言われたときは爆笑でした。
後日珍言采は技術部門で小型電子部品の設計開発を担当することになりました。
◆ ミニチュアSPとヘレンメリル
昭和52年、社会人になると会社の寮生活を半年続けました。
最初は4人用の部屋に3人でしたが、狭くて退寮する者が続出しすぐに2人になりました。
6畳くらいの大きさで、リノリウム張りの床が洋間と言えなくもなかったです。
両側に2段ベッドがあり、奥に机が4つありました。
珍言采はバイクを買うべく貯金らしきものをしていたので、その半年間にTVもオーディオもない生活を覚悟していました。
そこで九州を出るときにFMチューナ基板を買い、アルミシャーシに安定化電源とヘッドホンアンプも一緒に組み込んだ自作改造チューナを製作し布団袋と一緒に送りました。
寮で音楽を楽しむのはもっぱら学生時代から使用しているカセットデッキとこのチューナだけでした。
当時の安価な基板は、フロントエンド部は電子チューナではなくもっぱらポリバリコンでした。
そこで同調をとるのに音声のデテクター回路へセンターメータを付けて格好をつけていましたが、メータのインピーダンスが低いので音量が下がるデメリットもありました。
その後チューニングしたらメータを切り離すスイッチを設けました。
そのような生活も寮から親しい友人2名と3人で揃って脱出し、少し改善されました。
6畳二間+6畳のダイニングキッチンの新築アパートへ引っ越したのですが、一間は私が占有しもう一間へ二人が入りました。
しかしボーナス日に友人の一人が、高価なオーディオセットを購入したのです。
引越し時に一人が洗濯機、もう一人が冷蔵庫、珍言采が電子レンジを買っていたので三人とも素寒貧だと思っていたのに、社会人になるとボーナスがあったのです。
でも珍言采はこのボーナスでアサヒペンタックスMEを買ってしまったので、オーディオへお金をかける余裕がありません。
そこで九州の学生時代よりかつて知ったる秋葉原へ横浜からのこのこ出かけて行き、ラジオデパートでジャンクのステレオアンプ基板を買いました。
電源を自作し、大切な宝のむき出しカセットデッキとアルミシャーシのFMチューナへ接続すると、なんとかスピーカから音は出るようになりました。
それ以来ちょくちょくジャンクを買いに秋葉原詣でが続くのですが、ある日ラジオデパートの3階で基板を漁っていると妙に懐かしいような歌声が聞こえました。
一角に海外ブランドのスピーカーを売っている店があり、ガラスのパーテイション越しにレコードプレーヤで演奏中のLPが見えました。
くるくる回るレーベルを読み取るとヘレン・メリルの「メリル・アット・ミッドナイト」でした。
そのときはまだこの歌姫が「ニューヨークのため息」なんて呼ばれているのも知らず、ジャンクに囲まれてうっとりと片面を聞き惚れました。
その店は大型のアルテックやジムランもありましたが、ミニチュアのパラゴン等も飾っていました。
ミニチュアのほとんどには、フォステクスのFE103が使用されていました。
そこで珍言采もパーチクルボードを買って帰り、15cm角の小さなキュービックを製作してFE103を入れました。
当然ながらすごく定位はよいのですが、低音が全く出ませんでした。
次の週からは、その低音のでないスピーカで鳴らすべく件のレコードを探しました。
しかし当時何故かその国内盤は廃盤で、輸入盤も専門店にありませんでした。
◆ デーモスとノバ01
昭和52年頃の珍言采の仕事は、機器開発メーカの研究所技術部で小型電子部品の設計開発をしていました。
入社したての昭和52年5月の「マイコンショー」見学は感激しました。
先輩社員が勉強だからと新人の私を連れていってくれました。
場所はまだ五反田で、開催は確か第2回目だったと思います。
その頃既にHP社のプログラマブル電卓を持っていたせいか、こいつはソフトが得意そうだと電電公社(旧NTT)のデーモスや日本ミニコンのノバ01を仕事で使わされていました。
デーモスは電話回線を使用して電電公社のセンターマシンへ接続しTSSで使用するものです。
使い方は、端末側で先ずソース(フォートラン)を記述します。
テレタイプのようなキー鍵盤からオフラインでテープを穿孔していました。
次に電話をかけてセンターと接続し、紙テープのソースをスコンスコンと読ませます。
テープリーダーはCR/LFの位置で一時停止したので、スコンスコンと音がしました。
そのまま待つとセンターでコンパイルして、問題がなければ結果が端末のプリンターへ印字されました。
ノバ01はコアメモリで8KBしかありませんでしたが、さすがに当時としては演算速度が速かったです。
言語はBASICでしたが、後に発売されたTK−80BSやPC−8001のBASICを想像してはいけません。
ダートマス大の開発した二十数個のコマンド/ステートメントと同程度の機能しかありませんでした。
なにしろ10 A=B+Cの計算を10 LET A=B+Cと計算式の前にLETを入れなくてはなりません。
ソースの保管は勿論紙テープで、CRTはグリーン、プリンターは英数字のみでした。
先ず電源を入れるとトグルスイッチをセットしブートの紙テープを読ませ、次にBASICインタプリタの紙テープを読ませ、更にソースの紙テープを読ませます。
最初の仕事ではTV電子チューナのVRの目盛りを最小二乗法で計算させました。
VRの回転軸に連動したスケール上にCHの目盛りを位置決めするのです。
VRもロットで回転軸と抵抗値カーブの特性がばらつきますので、数ロット分のVRをメーカからサンプル購入して抵抗値を測定します。
全部で50個近いVRを回転角と抵抗値を測定する治具に取り付けて、5度づつ回転してはその位置の抵抗値を測定します。
次にその値の回転角における最大値と最小値をねぐって、最小二乗法でカーブを算出します。
その結果でスケールに印刷する版下を作成します。
面白かったのは、後にバンド切り替えなしに1chから12chまでを1つのスケールに印刷するようになったときでした。
それまでは1chから3chまでのローチャンネルと4chから12chまでのハイチャンネルがバンド切り替えスイッチで別々の印刷でした。
つまり電子チューナのバリキャップへ与える電圧を可変する選局VRは、直線に近いのでBカーブだったのです。
しかしユーザはそのバンド間に大きな周波数の隔たりがあることなど通常知りません。
そこで3chと4chの間をあたかも連続してチューニングするような仕様を要求されます。
VRのカーブは特殊になり、ある位置の僅かな回転角でいっきに値が変ります。
そうしないと3chと4chの間が大きくなってチューニングしづらいのです。
また問題としては、バンド間の警察無線や漁業無線が聞こえてしまう現象がでます。
当時はまだ警察無線もFM変調だったので、変調度は違ってもTVの音声検波回路で復調できてしまったからです。
そのような機器をメーカが国内で売る事は出来ませんでした。
そこでそのバンド間のチューニングをいっきに飛び越える必要があったのです。
◆ 電源一時側のヒューズ切れ
あるとき市場でTVのヒューズ切れのトラブルが多発しました。
原因を品質保証関係のセクションが調べると、ユーザが故障機器の全数に近いくらいの確率で電源スイッチを入れたままコンセントのプラグを抜き差しした結果でした。
家電機器は電源回路に容量の大きな電解コンデンサを使用しているので、最初はラッシュ電流によるヒューズ切れを疑いました。
ラッシュ電流とは、電源回路の二次側電解コンデンサがまだ充電されていない状態で電源が入ると一気に充電しようとして大きな電流が流れる現象です。
通常高級な機器のラッシュ電流の対策は、電解コンデンサに直列に抵抗器を入れて電流を制限します。
しかし抵抗器が入ったままではまずいので、リレー回路を用いて十分に充電された頃抵抗器の両端をショートします。
ヒューズが切れたTVは、ラッシュに対応した設計がなされていました。
数十年も歴史があったメーカですから、設計基準もしかりしていて当然といえばそのとおりでした。
当時ヒューズが切れる原因としては、もう一つ考えられていました。
電源トランスは電源を切ったときの状態により磁化されます。
つまり切ったときの電圧と電流の位相で、トランスそのものが磁化された状態になります。
磁化されると設計時に考えていたようなインダクタンスではなくなり、次に電源を入れると電源回路のインピーダンスがとんでもない値になります。
二次側電解コンデンサだけのラッシュ電流値以上の電流が流れる場合があります。
このインピーダンスを測定するのはとても難しかったので、ヒューズの電流値はディレーティングして決めます。
しかし設計基準としてのディレーティング値だけで機器を生産するわけでなく、品質保証の見地からテストも行います。
そのテスト方法がユニークでした。
大きな木製の板の上に太い電線を波形に這わせます。
これがスイッチコンタクトの片側になります。
もう一方のコンタクトは、箸のような木製の棒の先に電線を取り付けたものです。
この棒を波形のコンタクトの上を一気に滑らせます。
波状の電線に棒が接触する度にTVの電源が入り、電線から離れると電源が切れます。
電線が接触する部分で大きな火花アークが発生し、テストそのものは笑えるくらい面白かったです。
コンタクトの波の間隔は最初広くて少しづつ狭くなっていました。
そのおかげで、電源周波数のどの位相でTVの電源が切れてどの位相で電源が入るかはランダムでした。
しかし市場でヒューズ切れのトラブルが発生したものですから、このテスト方法が見直される事になりました。
指名の矢が新人の私に飛んできました。
卒業研究が「棒対突起付電極の高電圧放電経路」だったので、アークがバチバチ飛ぶテストはおまえに任せると言われました。
◆ インテルSBC−80
先ずオシロでトランスに流れる電流の波形を測定してみました。
技術セクションにはカレントプローブなる便利なものがちゃんとありましたので、TVの電源回路そのものと二次側のダミー負荷で治具を作り測定しました。
学校で習っていたこと(純粋なコイルに流れる電流波形)と違い、「ぎょえぇー」と言いたくなるような波形でした。
不純物たっぷりのコアにいいかげんな巻きかたの民生用電源トランスですから当たり前です。
要は交流電圧を変換し安全上問題がなければ、直流回路ばかりの二次側でなんとかなるのです。
どうも数社から買っているトランスメーカによっても、また当然ロットによっても波形は大きく変りました。
じゃぁ、電源を入れたときに最も電流が大きく流れるのはどの場合だろうかと考えます。
いくら低い商用周波数の50Hzだからといって、手でスイッチを入れていてはテストになりません。
電子部品のカタログをあれこれ見ていると再現性の高い制御が出来るスイッチはリレーだとわかりました。
理由は電圧を印加してコンタクトが接触するまでの時間をカタログ上にうたっているからでした。
このとき勉強になったのはコンタクトの材質と機構でした。
大きな電流の開閉には、カドミウム接点を用います。
またアーク対策としては、不活性ガスを封入します。
数A程度では銀接点でした。
信号用では当然のように金接点でした。
接点の機構もバウンスしないものやワイピングしないもの等いろいろありました。
次にリレーのON/OFF制御をどうするかで悩みました。
治具は治具屋だと先輩社員がアドバイスをくれるので、生産技術部へ勉強に行きました。
行くと珍しいものを見せてくれました。
インテルの工業用ボードでSBC−80というものでした。
ワンボードマイコンが世の中にあるのは専門書で知ってはいましたが、見るのは初めてでした。
当時NECのTK−80は販売されていましたが、業界ではホビー用として見られていました。
このボードでリレーを制御すれば、マシン語なのできっとスピード的には大丈夫と勝手な解釈をして早速借りました。
当時CPUは8080が全盛でしたが、SBC80は確か違っていたのに正確には思い出せません。
でもニーモニックでソースを書いて、表をみながら16進にセルフアッセンブルして16進キーから打ち込んでいました。
結構楽しかったです。
そのおがげで、マイコンブームのときは社内のミニ研修で先生をやったこともありました。
治具は精度的に満足は出来ませんでしたが、電圧のゼロクロスを検出後に10マイクロセック単位でONとOFFをずらしながら最もヒューズの切れやすいタイミングを探す事ができました。
確か電流のピークでOFFにして、電圧のピークでONにするのが過酷な条件でした。
◆ CBM3032
国産のPCがまだなかったころ企業では大型のホスト系電算機が全盛でしたが、30万から50万する輸入品のPCもちらほらと見かけるようになりました。
珍言采はデザインが気に入って、CBM−3032を購入しました。
コモドール社のPET2001の企業向けモデルでした。
どうやら私が会社で最初にPCを買ったらしくて、他の事業部からも多くの見学者がやって来ました。
しかし多くの先輩社員には、測定器より玩具を買ってなんだと反感もかいました。
たまりかねた上司も倉庫に片づけろと言い出す始末で、PCはこんなに役立ちますと宣伝する事になりました。
ある全体朝礼の日、珍言采は職場で最も美人なアシスタントをコンパニオンにして約150名以上の職場の全員の前でデモを行いました。
技術部門が出す連絡書類のタイトルを入力し、テープに保管する。
次にテープから読み出して文字列検索をし画面に表示する。
過去の書類はこのように検索できて便利ですとやりました。
ソフトは全てBASIC言語で私が書きました。
もっともテープはオーディオカセット、文字を読み込む領域はディメンジョンで300個程度、それでも検索に数分の時代ですからデモは散々でした。
しかしその努力は多くの人に認められ、近い将来はこのようなPCが全員の机の上に置かれるものだと理解してもらえました。
その上司も今は空の上です。
(ご冥福を祈ります)
◆ 量産部品
ジャンク基板で作ったアンプもそのうち音が気になり始めました。
スピーカーだって大きなものが欲しくなります。
珍言采は社内のオーディオ屋さんと仲良くなると半導体をたくさんもらいました。
毎月毎月半導体メーカや代理店の営業マンが新製品やサンプルを持って来るので、そのオーディオ屋さんは不要なものを捨てていました。
どうして捨てるのかと聞くと「音が悪い」と言っていました。
そのオーディオ屋さんの担当する機器はラジカセとTVの複合商品で、モノリシックICが多かったです。
確かにS/Nはあまりよくなかったが、自作もやっていた珍言采には燦然と輝く宝石でした。
アンプを作るから欲しいと言うと宿題をくれました。
このICを使用して作ったら報告するというものでした。
アナログレコード用のリア・イコライザー部とプリ部を同じICで製作し自分なりに比較することにしました。
珍言采はそれまで自作アンプをいくつか製作していたが、必ずと言ってよいほど左右の音にバラつきがありました。
音量じゃなくて音質です。
秋葉原の部品屋で買ってくる抵抗、コンデンサ類で製作する関係上これはしかたがないことです。
部品自体の特性がバラついているのでどうしても左右の動作特性もバラつきます。
かといって調整可能な部品(VRやトリマ)を信号回路にぶち込んで製作していては、ノイズが多くなってしまいます。
笑い話しではありませんが、メーカの設計部門にもこのような馬鹿が出没することがたまにあります。
珍言采の興味は、設計部門に置いている単一ロットつまり特性のそろった試作部品でした。
アッセンブリーメーカーへ供給される量産部品は、信頼性も安定していて特性もそろっています。
月に数万個単位で買っているので、そこから抜けばそれはもう秋葉原小売店のパーツなんて新品でもジャンクパーツに見えてくるものです。
これで製作すれば、左右の音質もそろうのではないかという目論見でした。
しかし、リア・イコライザーアンプは左右そろってプラスマイナス0.5db以下の偏差に収まりませんでした。
そこで次は、社内の友人を頼りました。
彼はオーディオ関係の事業部で設計部門にいたのです。
しかしまだ珍言采と同じく新人同様だったので、毎日毎日プリメインアンプのULショート試験をやっていました。
彼に相談すると、アメリカ向け輸出モデルの部品を実装していないイコライザー基板(通称生板)と、スチロールコンデンサを分けてくれました。
珍言采は事業部が違っていたので、本来スチロールを使用する部分にマイラーのJ品(許容差5%)を使用していたのです。
当然温度特性も違います。
音は紙フェノールのユニバーサル基板からガラスエポキシの専用基板に変えたことも大きな変化でした。
使用するパーツの品種、例えばコンデンサではマイラー、スチロール、オーディオ用電解等の使い分けは、社内の高級アンプをまねました。
音は至極満足できるものでした。
結局プリアンプは宿題のモノリシックICからディスクリート高級プリアンプへ化けてしまったのです。
◆ エレショースピーカー
アンプの次はスピーカーを検討しました。
ここで書いていることは、珍言采の仕事上の話ではありません。
すべて余暇といいますか趣味上のことです。
ある日、またまたオーディオ屋さんがスピーカーをたくさん捨てていました。
これ欲しいと12cmクラスのフルレンジを指指すと、そいつは音が悪いからと言ってフェライトの大きなものを2セットくれました。
昭和53年の頃だが、すでにアルニコ系のマグネットは自作マニアか高級スピーカーユニットにしか使われていなかったようです。
「これ、いくらするかわかる?」と聞かれてはたと困りました。
当然月に5000個とか10000個とか買っているはずです。
それにフォステクスや松下、パイオニア、フォスター等の趣味の分野のスピーカーとも少し違う。
市販の趣味のスピーカーで安物が3000円くらいだったので、1個1000円と答えたら280円と言われました。
ぎょぎょぎょ、秋葉原の路上品より安い。
それまで10cmフルレンジを使用していた珍言采は、さっそくツィーターももらって廉価スピーカーシステムを組み立てました。
その後仕事で松下電子部品の営業と仲良くなると、門真(かどま)の工場に寄ったついでにスピーカー工場を見学して16cmのラジカセ用をもらいました。
ボイスコイルからのリードを手半田作業で組み立てていました。
その後オーディオ屋さんから8cmフルレンジのフォステクスFEシリーズ品もいただいたので、何か特別なスピーカーシステムを作ろうと思い立ちました。
そのころには社内でも変人オーディオマニアとしてデビューしていたので、仕事中に何か作っていても特にあれこれ言われるようなことはなかったです。
珍言采は先ず厚さ12cmくらいはあるエレショーカタログを2冊準備しました。
これを仕事の合間に1週間くらいかけて繰り抜いたのです。
全ページの縁を2cmくらい残して中央部分を四角く切り抜きます。
よく切れるカッターナイフと金尺(スチール直定規)を使用して、5枚づつくり貫いていきます。
切り取ったら表表紙へ約75Φの穴をあけスピーカーユニットを接着しました。
裏表紙には赤と黒の端子(バナナプラグを突っ込める)をネジ止し、これも接着します。
内部の空洞には適当にグラスウールを詰め込みます。
最後に表裏の表紙間を万力で絞めあげて、上面、側面、底面の紙の部分へ木工用ボンドをたっぷりと塗って仕上げました。
エレショー・スピーカー・システムの出来上がり。
これを実験机の上で鳴らしていると、「くれくれ」と多くの人に言われました。
音は流石に紙臭かったです。
◆ ペンタックス党
社会人になって初のボーナスを貰ったのは、1年後の夏からでした。
一部上場企業と言ってもそこはシビアなので、最初の夏は寸志と呼ばれ数万円です。
その冬でさえ通常の額の半分以下でした。
初任給がガンガン上がっていた頃の余波で、まともな額のボーナスを支給すると先輩社員の年収を超える恐れもあった時代です。
というより、やはり会社がせこくて組合も新卒より会社に貢献した世代に力を入れていたのではないでしょうか。
その後の売り手市場では逆転し、バブルの前は福利厚生でも独身寮にサウナやバー、ジムを設ける企業が出る時代もあったが・・・
夏の暑い日、カメラと言えば新宿といわれる時代だったので、横浜から新宿まで出かけて一眼レフカメラを買いました。
卒研で毎日毎日モノクロ写真を焼いていたので、その方面の腕はよかったのですが撮る方はほとんど素人でした。
アサヒカメラ、毎日カメラ、日本カメラ等のカメラ雑誌を眺めては、ニコンやキャノンを持っている友人とは異なる機種を思い浮かべていたら雑誌の評価がよかったマミヤのNC1000Sを買うことにしました。
マミヤといえば中判カメラで有名だったが、何故かこの時期に意欲的な35ミリ一眼レフを発売していました。
しかし新宿に着いてさくら屋へ入ると、軽くて驚くほど小さなアサヒペンタックスMEが急に欲しくなったのです。
何しろ50mmF1.4標準レンズを装着すると、三脚に取り付けられないのです。
三脚とボディーの間に付属品のスペーサーを入れる仕組みでした。
原因はボディー下部より下にレンズがはみ出してしまうからです。
今となっては欠陥だぁーと思うかもしれませんが、当時は驚きのほうが勝って買ってしまったのです。
レンズは標準しか買えませんでした。
すぐに素人の望遠好きが発症してしまいましたが、相変わらず貧乏だったのでケンコーの2倍テレコンバージョンレンズを買ってごまかすことにしました。
ボディとレンズの間に入れると焦点距離が2倍になって、2絞り暗くなるものです。
職場の知ったかぶりや多くの雑誌では、コンバージョンレンズを使用するときに絞り込めば大丈夫と書いてあったのに勇気付けられたのは事実でした。
職場へペンタックスMEを持って行くと意外な反応がありました。
このMEの露出計は、中央重点測光の絞り優先AEです。
AEだから自動で選択されたシャッタースピードがファインダー内に表示されます。
従来のカメラではオーバー/適正/アンダーを3点のLEDで表示する簡易型や、数値を印刷した部分を指針が移動する方法で表示していたと思います。
デジタル表示は、まだ現れていなかったようです。
しかしこのMEは、十数点のLEDが縦に並んでその横に数値が印刷されていました。
125の横のLEDが点灯しているときは、1/125秒を表しています。
当時電気業界ではLEDが不足しており、機器の製造がLED待ちでストップするようなこともあったので、職場ではLEDを無駄に使用した「けしからんカメラ」のレッテルを貼られてしまいました。
写真が上手くなるコツは場数です。
すぐにトライXの詰め替え品を買って、モノクロをバシバシ撮影しました。
詰め替え品は、既に学生時代から卒研のフイルムとして使用していたので抵抗はありません。
仕上がったネガのナンバリングが、必ずずれていることだけが問題でした。
自分の身近な部屋の中や近所の撮影が終わると、毎週のように鎌倉まで行って観光地を撮影しました。
50本も撮るとそれなりの出来の写真がたまるので、スクラップブックへ貼って写真帳を作りました。
ついでにカメラ好きも集めて写真同好会も作ってしまいました。
月に1回は会社の女性を誘って、同好会で撮影会を開催したものです。
当時はまだ写真を撮りませんかと女性を誘うと、「いいです」と90%は断られました。
しかしあるときとても有効な方法を発見したのです。
撮影会の写真を貼ったスクラップブックを見せながらどうですかと誘うと、100%「撮ってください」と言われるようになりました。
最初は怪しいものではないとか、同好会の実力がわかって撮らせてくれるのかなと思っていましたが、実は職場のよく知っている他の女性が綺麗に撮られているのを見ると自分もこれ以上に撮れると思うらしいことがわかりました。
(女性の皆さんごめんなさい)
当時はまだ引き伸ばし機を持っていなかったので、もっぱらトライXかネオパン400の現像だけをやっていました。
機材は職場の先輩社員で写真が好きな人たちから貰うことができました。
珍言采はつい数年前まではキャノンのベークライト製の現像タンクを使用していましたが、現像液を無駄に使用するのでLPLのステンレスタンクへ切り替えました。
しかしLPLのステンレスタンクは、隙間からジワッと現像液が漏れるので嫌いです。
現像液は馬鹿の一つ覚えで、2倍に希釈して使い捨てにしています。
停止は酢酸5%、定着はフジフィックスを繰り返し使用します。
乾燥はドライウェルに浸して、オモリ付きのクリップに挟むと室内のカーテンレールに吊るしています。
同好会の撮影会が終わると、2週間後くらいにプリントしたものを持ち寄って品評会を行いました。
やはり写真が上手くなるコツは、人に見せることだと思います。
当然モデルさんを務めてくれた女性も呼んで晩御飯をご馳走し、引き伸ばした写真やパネルにした写真をプレゼントして喜ばれました。
その頃の影響なのか、今でも美味しいものが好きな連中がグルメクラブと称して集まり、写真も撮らないのにあちこちで食い散らしているのは変わりません。
今となっては2年に1回開かれるかどうかの撮影会ですが、出来のよいものだけを集めた写真帳は10冊を超えています。
ときどき出しては眺め、ニタニタしています。
◆ ニコン党へくら替え
ある日、会社の直接業務に影響しない分科会メンバーからニコンのカメラを買わないかと持ちかけられました。
年寄りが多い中、唯一年代が同じせいか話しが合うほうでした。
珍言采はペンタックスME1台しか持っていませんので、それまでは当然ペンタックス党です。
彼はカメラをやめるというので、日頃お世話になっていたこともあり引き取ることになった次第です。
ニコンF2アイレベル+85ミリF1.8+24ミリF2.8のセットでした。
レンズは両方とも純正品でした。
珍言采は中古屋の価格しか知らなかったので、個人売買価格よりかなり高く引き取ってしまいましたが、素性のよいカメラだったので満足でした。
しかし困ったことは、露出計のないアイレベルファインダーだったことです。
経験が少ないので露出がわからず、しばらくはMEを露出計代わりに使っていたくらいです。
そうこうしているうちにセコニックの有名ではない方の、反射光式のズーム露出計を別の人から売りつけられました。
5000円と安かったのですが、重いズーム式だしプロのように入射光式をモデルさんの顔の前で振りかざすこともできません。
しかし露出を勉強するうえでは、大変参考になりました。
その後モデルさんの良い表情を追いかける機動力がないと写真部の撮影会でも負けてしまうので、フォトミックAファインダーを購入しました。
新品だったので珍しく保証書を丹念に読むと、AI改造のことが書かれていました。
珍言采は保証書を握り締めるとすっ飛んで店へ行き85ミリF1.8のマウントをAIに改造してもらいました。
今でもやっているかわかりませんが、当時ニコンはフォトミックファインダーかAIのボディーを買うとレンズ1本だけ無料でAIに改造してくれていました。
その後中古のモータドライブ2を買い足し、レンズも新品のトキナーの80−200ミリF4を買い足しました。
このレンズの色の描写は、純正の85ミリF1.8よりよかったと思います。
当時はまだシグマの元気がなくて、トキナー以外はコシナやコムラーがありましたが、トキナーの敵ではなかったように記憶しています。
そうこうしているうちにニコンF3が発売になりました。
初期の不良が怖かったのできっかり1年後に品川の**で買ってしまい、今度もその保証書を持って普通の店へ行き24ミリF2.8をAIに改造してもらいました。
トキナーのズームは交換マウント方式だったので、Kマウントを買ってペンタックスMEと一緒に会社の同僚へ売ってしまいました。
そうするとまた望遠ズームが欲しくなって、トキナーの最新型70−210ミリF3.5を横浜の駅ビルのさくら屋で買ってしまったのです。
そのころはすでにヨドバシやビック等が数多く展開し特に新宿まで行く必要はありませんでした。
ずいぶん負けてくれたうえに、トキナーブランド(と言ってもドイツ製)のスライドビューワ、トキナーブランドのタオル、ケンコーのスカイライト等販売促進品のおまけもたくさん貰いました。
その後結婚を機会にニコンEMと36−72ミリEズームをカミさん用に買い足しましたが、結局撮らないので会社の同僚へボディーのみ売りました。
Eズームはネットで知り合った女性に貸したらそのまま戻ってきませんでした。
その後ニコンF4とシグマの28−85ミリF3.5を買い足し今に至っています。
いつのまにかニコン党に変身していたわけです。
引き伸ばし機は、F3を買った後に会社の写真部へ入ったのでダーストのC−35というカラーもプリント出来るものを購入しました。
当時はいずれカラーをやりたいと思ってはいましたが、結局未だにモノクロのプリントしかできないのです。
ダーストはイタリア製ですが、旭光学が販売を行っていたようです。
リッチな先輩の中には引き伸ばし機はフォコマートだという人も多かったのですが、その反動でダーストを選んだ部分もあります。
また流石にイタリア製で、デザインは優れものだと思います。
しかしカラーも出来ますというよりモノクロも焼けますという逆のタイプだったので、国産の集散光式とは異なり完全な散光式でした。
散光式の強みは、ネガの傷に強いことです。
印画紙上でしっかりピントを結ぶのですが、ネガの擦り傷は広い面積から注ぐ光のおかげで、まるでノイズキャンセラーのように働きます。
しかし弱みもありました。
ディフューザーBOXの中は発泡スチロールだったので、ネガに届く光が極端に弱くなってしまい通常の露光時間が10倍以上でした。
しかし女性ポートレートを専門に撮っていたせいか、1号分硬調のゲッコール印画紙を使用してもソフトに仕上がり他の引き伸ばし機と次元が違う仕上がりになったものです。
写真部の先輩諸氏からも「なんだこのプリントは」と最初に言われますが、「独特の味がある」と落ち着いてしまうことが多かったです。
その後フジ写真フイルムの690プロを友人から貰って引き伸ばしたときはたまげました。
1皮2皮でなく10枚のベールを取り去ったように仕上がって、先輩諸氏のフォコマートよりニコン引き伸ばしレンズ+フジ690プロの方が勝っているではないかと思いました。
プリントの処理は、現像にコレクトールを使う以外はフイルムとまったく同じ処理をしています。
結局ニコン党になったせいかはたまた女性ポートレートばかり撮っていたせいか、その後数多くの新婦側結婚式に呼ばれるようになり立ち居振舞いが式場のカメラマンのようになってしまいました。
珍言采の席が新婦側友人より何故か親戚の末席が多いのは体面上でしょうか?
◆ バトミントン部創立
写真同好会のメンバーの大半が集まり、バトミントン部を結成しました。
勿論部長は何故か言い出しっぺの珍言采です。
1年間は同好会の身分でしたが、練習の(大会ではない)実績を残せば翌年から出る部費が創立の目的でもありました。
昼休みに会社の広場でやっているバドミントンでは、風に吹かれてつまらないものです。
どうせなら体育館でおもいっきり新品のシャトルを叩いてみたいと考えます。
部費だったら本物の水鳥が買えるぞぉー。
人事部へ同好会の申請をすると、なんの問題もなく受理されました。
その翌週から体育館を週に2回使って練習を始めました。
先ずは会費の徴収で、一人月に500円。
これは水鳥のシャトル1個が300円近くしていたので、2個潰せば赤字になる金額です。
しかしこれ以上集めると部員が来ません。
次にコートにテープを張りました。
体育館のバレーやバスケットの色と異なるテープを早速買ってきました。
確かバドミントンの正式規格とは違う色でしたが、新参者のバドミントン同好会に発言権は全くありません。
3番目は部員集め。
これは難なくクリアしました。
何しろ昼休みにバドミントンをやっている輩は多かったのです。
毎回仕事の都合で顔ぶれは異なるりますが、6−10人程度が集まりました。
それまでは正式クラブの空手部が体育館を占有していたのですが、こちらは数で圧倒して敵ではありませんでした。
空手部は礼儀を重んじるせいか、すぐに1/2を譲ってくれたのです。
会社の体育館の設備はそこそこでした。
元々バドミントン用のポールや穴も準備されていたので、我々「シャトルクスクス」は安価な練習用ネットを購入したらすぐに本格的に始めることができました。
また臭いのですが、ロッカールームと温水シャワーもありました。
4番目は練習。
最初はシャトルの打ち合い、つまりバトルに明け暮れたものです。
何しろ昼休みに汗を流して我流で叩き合っている連中です。
相手を打ちのめすことしか眼中にないのです。
しかし翌年の4月がきて一変しました。
そう新人がたくさん入部してしまったのです。
同好会もめでたく公認のクラブへ昇格したわけです。
練習仲間には市の大会や学生時代に県の大会で上位入賞のつわものもいましたが、みんな真面目な練習は嫌いでした。
そうなると珍言采は本を買ってきて練習メニューを作成しました。
全員一列に並んで体育館内を走り、フットワーク、ハイクリア、ヘアピン、スマッシュと練習しました。
珍言采はそれまで、体育の授業で習ったうろ覚えのルールでやっていたわけです。
バトミントン部を結成してから多くのことを学びました。
珍言采は技術部門(設計部門とも言う)にいたからあまり製造ラインのことを知りませんでした。
(技術部門にいても設計はやらなかったが・・・)
勿論新人で配属されたときは、製造ラインや品質保証部門、受入検査部門、アフターサービス部門等へ修行に行かされたので他の部門が何をしているかくらいは知っていたつもりです。
昭和50年代初期、すでに中卒の金の卵は死語だったが、それでも製造ラインへ配属されるのは中卒か高卒の女子が圧倒的でした。
男性で製造ラインへ配属されるのは、**電子専門学校を出た調整マンか技術畑出身の管理職でした。
横浜を中心とする神奈川県の製造業では、中卒の女子の場合南の遠方から集団で就職してくる人達が多かったようです。
名前を聞いただけで、どこの出身だとわかる場合も多かったです。
1月の成人式の季節になると、会社は体育館で出身地別に写真を撮影して母校へ送っていました。
企業にとって、来年も卒業生をよろしくというわけだったのです。
これらは体育館で練習をしていて始めて知りました。
しかし翌年の成人式まで退職せずに勤めた人達は少なかったようです。
最初の3ヶ月で多くの人達が消えていきました。
女子の場合、アパート代節約のために会社の寮に入る人が多かったようです。
大卒、高専卒は遠方の寮から電車通勤させられましたが、女子の多くは歩いて通勤できる寮で少し恵まれていました。
設備もどちらかと言うと大卒、高専卒の方が悪く、電車で45分や1時間近くかけて通勤するのが面倒なため、こちらはこちらで会社は辞めずとも退寮者が続出しました。
会社としては、自活できる能力の人はさっさと寮を出て欲しいと言わんばかりだったのだのです。
しかし寮に恵まれていても午後5時を過ぎてすぐに帰宅できる女子は、遊びのためかもっと給料がよい所への転職か仕事に馴染まないとすぐに退職しました。
バトミントン部も真面目に出席してた新メンバーが、化粧が派手になり髪を染めて次は来なくなりました。
今から20年前のチャパツが珍しい時代です。
会社では、「トウモロコシの**ちゃん」とか「赤毛のアン」のとか呼称されて差別されていました。
毎年4月の新年度を迎えると宣伝もしないのに入部者が20人くらい集まりました。
面倒を見なかったらスーパーマーケットの1800円くらいのセットになったラケットを買ってくるので、新人用のラケットだけは10本程度準備していました。
3ヶ月経過して、こいつらは残ってくれるかなという時期まで待ってから用具を買わせたのです。
当時横浜では、駅の海側のスカイビル(今はそごうかな)と元町にラケット専門店がありました。
値引きはスカイビルの方が大きかったのですが、面倒見は元町の方がよかったようです。
これは大丈夫とわかった新人メンバーは、珍言采が元町まで連れて行き用具を買わせました。
彼女達の給料から6000円程度のラケットを買わせるのは辛かったので、帰りはどこかで晩飯をご馳走していました。
部費から補助も考えましたが、自分のラケットじゃないと練習にも身が入らないのが普通です。
ラケットを購入するときは、先ず重さやヘッドバランスを量ります。
非力な人と運動性を重視する人は軽いものを選びました。
だいたい85−90g、重いものでも100g程度だったようです。
珍言采は後継種が出なかったアルミテーパーシャフトの90gをメインに使っていました、
後にフルカーボンの時代になって買い換えました。
重要なのはシナリを利用するか剛性を利用するか、またスナップで打つか振りで打つかの差があります。
バトミントンはテニスと違って、スナップを使えないと上達しません。
スマッシュでスナップを使うと、右利きの人では振り切った後にグリップが右腕の右側へ出ます。
スナップを効かせるには、当然グリップの太さも重要になるのです。
購入時に重さを気にする初心者は多いのですが、グリップの太さを気にする人は少なかったようです。
やはり自分の指の長さで選ぶことが必要です。
面倒なのはタオルグリップを革グリップの上に巻く場合でした。
たいがい後になって滑り止めと握りこんだときの感触からタオルグリップを巻く場合が多いのです。
最初から太目の革グリップを選択しておくと後で後悔することになります。
メーカーとしてはヨネックスが独占的で、カワサキが少し、ゴーセンは見なかったようです。
価格的には初心者が4000−6000円クラス、熟練者で8000−12000円クラスが多かったと思います。
靴とウエアはテニス用と区別がありませんでした。
珍言采はフレッドペリーを愛用していました。
あとは格好をつけるヘアバンド(通称ハチマキ)とリストバンド。
珍しいものとしては、フレームのプレス。
これは木製時代のフレームの曲がりを出ないようにするものですが、下手の横好きが自分でガットを張るとねじれるので用いていました。
何故か金属フレームになっても使っている物好きは多かったようです。
◆ 悲しき製造業
バトミントンに熱中していた頃、珍言采はまだ独身でした。
技術部門にいても製造業の給料は安かったです。
年収も昭和50年代半ばで200万円台ではなかったでしょうか。
珍言采は自炊していたので、外食は贅沢でした。
イタ飯なんぞは月に1回くらいしか食べられなかったのです。
悲しい思い出もたくさんあります。
昼食は会社に食堂があったが、ビルが別だったので事務フロアまで配達してくれる弁当を食べることがありました。
弁当には黒の250円、赤の350円、黒だが蓋に模様の450円の3種類が選べました。
弁当の製造は、食堂が行っていました。
多くの人は赤の350円でしたが、珍言采は450円を選びました。
珍言采は当時から飲まない吸わない買わない打たないだったので、食べる分には贅沢が多かったのです。
偶に250円弁当の人が間違えて珍言采の450円弁当を食べることがありました。
勿論バツが悪いので、一人だけいいもの食うなと嫌味を言われたこともあります。
一時期自炊の晩飯のついでに、弁当を作って出勤していました。
食堂は嫌味を言われる気分の悪さも吹き飛ぶ悲惨さでした。
2交代制でしたが、どちらも最初の5分でサラダが売り切れになりました。
食堂もたくさん作ればよさそうなものですが、何故か絶対数が少なかったのです。
当時、男性の技術職と製造職の制服の差はありませんでしたが、技術職は左胸のポケットにJIS1級の15cmスケールを差しているのですぐに識別できました。
女性はトレーサー等の技術職と事務職がスカートで製造ラインは安全性からズボンでした。
食堂のテーブルに縄張りはありませんが、技術職、事務職、製造職は自然に別々のテーブルで食べていました。
ある日、ご飯にサラダ、副食の皿を1つ、小皿を1つ、味噌汁、納豆、豆腐、海苔をテーブルに並べていたら周りをズボンの女性に囲まれてしまいました。
彼女達の質素なメニューを見て驚きました。
半ライスと呼ばれる小さなご飯に納豆、生卵、食券をまとめ買いしたときのおまけの券で買える味噌汁。
珍言采はいつもの3倍のスピードで食べ終えると、すぐに食堂を出ました。
何かご馳走したい気持ちもあるのですが、そんなこと毎日出来るはずもなく悲しい気分でした。
バトミントンの練習のときに仲のよかったラインの女性に聞いてみると、給料が安くても仕送りしている人が多いのがわかりました。
その娘も1年を経過せずにもっと給料の高い仕事に転職して行きました。
あぁ、悲しき製造業。
◆ コストダウン
仕事上の失敗は数多くある。
それを失敗と思わないところに新人の強さがある。
珍言采が配属された部署では、CRT式のTVとラジオとカセットテレコが合体した民生機器に力を入れていた時期があった。
この分野の複合商品としては、お家芸のSONYより先行していたと思う。
CRTは3インチのモノクロで、当初ラジオとテレコはモノーラルだった。
その後SONYのジャッカル、松下のトランザムが参入してきて競争になるとFMとカセットはステレオに、TVは音声多重になった。
小型化競争もモノクロCRTで1.5インチまでいった。
5インチCRTのカラーCRTを搭載した頃から、この種の複合商品の人気はなくなり市場から見かけなくなった。
やはりポータブルでありながらCRT搭載商品は重くて不便だった。
液晶が開発され安価になるまで、この手の商品は姿を消すことになった。
ある日、機器に搭載したVUメータをコストダウンする仕事を任された。
当時はまだVE(バリューエンジニアリング)という言葉はなかった。
コストダウンは、部品メーカが持ち込む安価な部品を代替部品として使えるかどうかの検討だった。
候補となる部品は、既に部品メーカが機器をバラして検討していたことが多かった。
部品の持ちこみ先は、取り引きがないと購買部門へ、既に取り引きがあると営業マンが技術部門へ直接持ち込んできたことが多かった。
機器のアッセンブリーメーカ大手は、例えばT社のようなところは設計部門が全部品の仕様書をしっかり作成していた。
(今でもそうかもしれない)
大手で購買部門が強いところは、その仕様書を部品メーカに渡してコストダウン部品を探すことになる。
メーカの決定権を購買部門が握っているのである。
設計部門は参考程度の発言権しかない場合すらある。
そうなると設計者には甘えが出て、コストダウンは購買の仕事で我々には関係ないとすら思うようになる場合もある。
中には購買の仕事を取っては駄目だとか発言する輩も出る。
愚かなことだ。
しかし私が所属していた会社は技術部門が強かったので、いちいち仕様書は作っていなかった。
正確に言うと効率化のために廃止されていた。
開発競争が激化すると仕様書を作成し、それを購買部門が部品メーカへ渡してそれから部品を製造していては他社に遅れをとる。
お役所の機器を開発しているなら別だが・・・
部品メーカが普通に製造している標準品で設計していくのが民生の機器で生き残る方法だった。
勿論超小型部品やキー部品、ビデオデッキではヘッドのようなつまりそれがないと機器が成り立たない部品は悠長なことは言っていられないが・・・
特にS社では、他社が既に採用した部品で設計するのがうまかった。
そうすれば部品採用の試験等をかなり省略できるので、開発ペースが早くなる。
**社が使っているなら自社でも大丈夫だろう方式である。
珍言采の部門では、昭和52年に入社する10年以上前に部品仕様書はなくなっていた。
部品メーカが提出する承認図(後に納入仕様書に代わる)がすべてだった。
(すべての語句の意味は機密上省略します)
数日後、VUメータの承認図とサンプルが数十個届いた。
先ずは図面で寸法を確認。
既に部品メーカが取り付け確認を行っているので、すんなりOK。
次にスペックを確認。
電気的スペック等は、しっかりこちらの仕様に合わせてきている。
そこで該当の機器を製造から払い出し、実際に取り付けて互換性確認。
全然、問題ない。
珍言采がいやにおとなしいので(実際は何をやればよいかわからず思案中)、先輩社員が色々と教えてくれる。
「小さなメーカの成形は気をつけろ」。
なるほど、ゲートの大きさやウェルド(溶けたプラスチックの流れが表面に出ている現象)が若干見栄えを悪くしている。
「端子の半田メッキは大丈夫か」。
なるほど、耐熱性は230度5秒と承認図に書いているが、在庫期間が長くなると半田付け性が悪くなる。
なんだかんだで、無事承認した。
しかし数日後、課長からお目玉食らった。
「しっかり図面を見ろよ!」。
なんと既に採用済みのメーカと端子の極性が逆なのだ。
これではラインで逆接続するかもしれない。
「逆接続しても壊れないのをすぐに確認するんだ」。
と言われ恐縮状態。
珍言采のような自作派はちょいちょいとテストするので簡単なことだが、ラインではそれまでの習慣があった。
このVUメータを流すときは極性注意の作業指導書を生産技術部に発行してもらい逃げるしかなかった。
苦ーい思い出である。
◆ さて結婚
ある夏の日、珍言采は朽ち果てていた環境試験室とやらを復活させる仕事を仰せ仕りました。
そこは既に使用しなくなって5年は経過していました。
付帯設備を調べると、なんと珍言采が生まれる前からの機器もありました。
改築の予算は2000万円。
これで高温高湿室と低温室を大改装しなくてはなりません。
でも、当時としては結構使い勝手がある金額です。
高温高湿室内から室外へ熱電対を配線して、室外から機器の温度上昇を測定する必要もあります。
内部へ耐湿構造のコンセントも設けます。
低温室はドアを2重構造にして霜が付かない工夫も必要です。
かなりあれこれ勉強になりました。
工事は特に急いでいた訳ではありませんが、土日もやりました。
上司が立会いを嫌がるので、珍言采は休日出勤して工事現場へ行きます。
その当時国道*号線近辺の京浜地域は、土日になるとお昼ご飯を食べる店もありませんでした。
工場地帯の人がいなくなり、ひっそりとしてしまうからです。
ある土曜日、庶務の女性がお弁当を持ってやって来ました。
庶務の仕事柄、誰が休日出勤するか事前に人事部へ届出があるので知っているからです。
もちろんゲートの守衛さんも人事部所属なのでフリーパスです。
職権乱用と言うか悪用と言ってもよいでしょう。
その後珍言采は、恥ずかしいかな尿道炎という病気にかかりました。
医者へ行くと、「あんたのような独身は同じようなものばかり食べるので、血液や尿のPH(ペーハー)が一定になり尿道炎へかかりやすいんだよね」と言われました。
「尿道炎なんて薬を飲めば2日で完治するけど、また繰り返す人が多いんだよ」と追い討ちをかけます。
最後は「3日に1回は酢の物食べてPHを振らせるように」とありがたーい指示をいただきました。
さて会社を休んだ翌日、通院欠勤の理由を件の庶務に聞かれます。
「尿道炎だぞぉ、わしに近づくな」と言うわけでもないですが、正直に病名と対策を告げると翌週から酢の物付きのお弁当が始まりました。
その頃は既に残業中のおやつ等も貰うようになっていたので、仲は良かった方です。(同じ年齢だったし)
お弁当は私が出勤する前に、紙袋へ入って机の上に乗っていました。
幸か不幸か庶務はメール等の配達もするので、約1年間誰にもバレませんでした。
その庶務が今のカミさんです。
お弁当のオカズにカミさんのお母さんの手が入っていたのを知ったのは結婚後でした。
これを押しかけ女房と言わずに何と言うでしょう。
◆ 転職
昭和63年、ある夏の夜。
某社に転職した友人から、電話が掛かって来ました。
こっちの会社、設計と開発に100人以上いるけど、技術管理屋がゼロなんだ。
部品番号むちゃくちゃだし、図面は出てこないし、手書き部品表の様式が出図する設計者の数だけあるんだ。
今度、人買いの人事屋から電話が掛かるはずだから来てよ。
うへぇ、うちの会社より20年くらい遅れています。
たまたま、TSOで3270エミュレータを使ったPDMの基みたいなのを開発完了したばかりだったので、面白そうだから行くよと即答しました。
システムは内製で、社内のEDP部門と一緒に技術部の珍言采が作ったPL/Iプログラムも動いていました。
既に機構系CADは導入したし、電気系CADは別の人がやったし、GP-IBの自動計測システムも作ったし・・・
当時高価だったIBMの5550で、設計パワーソース管理システムを作ってX-Yペンプロッターで機種開発日程表も出力したし。
ときどきEDP部門のJCLを書き換えて、システム起動時に挨拶が出るような悪戯もしましたが、何か別のものをやりたいと感じていたところでした。
隙ですな。
◆ 高柳健次郎
平成元年、人買いの人事屋に釣られて転職しました。
昭和52年に最初の会社へ入社し、テレビ研究所とビデオ事業部を経てから11年以上が経過していました。
最初の会社で最も印象深かったのは、技術最高顧問だった高柳健次郎さんでしょうか。
知る人ぞ知る、世界最初のブラウン管式TVを開発した人です。
新人研修のときに講義を受けて、凄い人だったかもしれないが・・・
このような感想分を書いたら、先輩社員に呼び出されました。
殴られそうな勢いでした。
珍言采はアマチュア無線をやっていたので、宇田・八木アンテナの宇田新太郎さん、八木秀次さんと同様に尊敬する人ではありました。
まぁその時分はただのヒネタ技術者の卵だったので、偉大さなんてわからないものです。
転職の2年位前、今で言うPDMやPLMを構築して事業部長表彰や社長表彰を貰い、創立記念日に他の表彰者と壇上で社歌を歌いました。
がしかしあまり感激もなく、式典が終わったら会場近くに停めたバイクに乗って、伊豆へツーリングに行きました。
その後暫くして、高柳さんから直筆の手紙をいただきました。
「いいもの開発したねぇ・・・」
転職後にロッカーで着替えていると、設計部の隣の開発部の課長さんから、君は***社から来たそうだが高柳さんを知っているかねと聞かれました。
はい、まだ最高顧問をしていますよと答えると、僕はテレビジョン学会誌に論文を書いて高柳さんの賞を取った事があるんだと自慢を始めました。
珍言采は、直筆の手紙を貰いましたよと自慢すると、それ以降あまり会話をすることがなくなりました。
どうもその課長さんには、憧れの人だったようです。
ヒネタ性格は、転職してもそのままでした。
◆ 続くかもしれない・・・